HISTORY 沿革
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原点
1930’s-1970’s
- 内山鑑定の歴史
- 内山鑑定に関わる社会の歴史
1935 昭和10年
鑑定と特許の事務所を
大阪・伏見に創業
内山鑑定の歩みは、創業者・内山清が1935年(昭和10年)4月1日、38歳のときに掲げた志から始まります。理想とする鑑定の在り方を追い求め、それまで勤務していた日本海上保険株式会社(現・損害保険ジャパン株式会社の前身の一部)を退職し、大阪市東区伏見町(現・大阪市中央区)にて事務所を開設。弁理士としての特許業務と並行し、火災損害鑑定業務を開始。鑑定人としての使命感が、この日をもって動き出したのです。
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開業(伏見町)当時につくったと思われる表札
内山鑑定事務所の前で幼い内山理(二代目社長)
開業当時につくったと思われる表札
内山鑑定事務所の前で幼い内山理(二代目社長)
1941 昭和16年
太平洋戦争、
時代のうねりとともに
1937年(昭和12年)8月25日、開業からわずか2年余り。創業者・内山清は日中戦争のため召集され、事務所は一時閉鎖を余儀なくされました。その後、1940年(昭和15年)に召集が解除され、業務を再開したのも束の間、太平洋戦争が勃発。損害保険業界が戦時体制下で中国への進出を強めるなか、清はその中枢である華中損害保険協会の初代書記長に就任し、鑑定人としての活動の舞台を上海へと移します。終戦を経て帰国した清は、1946年(昭和21年)4月、大阪市南区(現・大阪市中央区)にわずか7坪の事務所を構え、再び鑑定の道を歩み始めました。戦中戦後の激動の中にあっても、鑑定人としての誠実なまなざしは揺らぐことなく次代へと受け継がれていきます。
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清、出征時の様子
1942 昭和17年
鑑定人制度、はじまりのとき
日本における損害鑑定人の起源を明確に示す資料はほとんど残されていませんが、その源流は火災の焼け跡に立ち、鉄板や釘、建材、機械などの「焼残物」を見極め買い取っていた人々にあると言われています。やがて、そうした目利きの中から、保険会社のために損害の評価を行う者が現れ、日本の鑑定人という職業が形づくられていきました。そして1942年(昭和17年)、旧・日本損害保険協会により「火災損害鑑定人並ニ焼残物取扱人ニ関スル規則」が制定され、鑑定人の登録制度が発足。制度としての礎が築かれたこの年は、日本における鑑定業の節目として記憶されています。
1965 昭和40年
有限会社内山鑑定事務所 設立、
理が志を継ぐ
創業から30年。時代の変化とともにさらなる信頼を得るべく、個人事務所は法人化され、「有限会社内山鑑定事務所」として新たな一歩を踏み出しました。代表取締役には、創業者・内山清の志を最も近くで受け継いだ弟・内山理が35歳で就任。資本金50万円、従業員8名(鑑定人4名・事務職4名)体制で、大阪市東区(現・大阪市中央区)淀屋橋近くに17坪の事務所を構えました。その後も信頼と実績を重ね、1970年(昭和45年)には同じビル内にて35坪の広さへと拡張。法人化による社会的な信用力の高まり、そして火災発生件数の増加も相まって、受注件数は着実に伸びていきました。
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有限会社としての第1 期決算報告書
1966昭和41年
地震保険制度、創設
1964年(昭和39年)に発生した新潟地震の甚大な被害を契機に、自然災害に備える社会的な仕組みの必要性が高まりました。その流れを受けて、1966年(昭和41年)5月、「地震保険に関する法律」が公布・施行され、同年6月1日より正式に保険の認可・販売が開始されました。創設当初の制度は現在とは異なり、自動付帯方式での提供、保険金額は火災保険に対して最大30%まで、そして補償対象は「全損」に限られるなど、制度はまだ発展途上の段階にありました。それでも、国民生活の安心を支える礎として、大きな一歩を踏み出した年となりました。
1972 昭和47年
千日デパート火災、
戦後最大の惨事
1972年(昭和47年)5月13日、大阪市南区難波新町(現・大阪市中央区)にあった千日デパートで火災が発生。この火災は、死者118名・負傷者81名という甚大な人的被害をもたらし、戦後日本のビル火災として最悪の惨事となりました。この出来事は社会に大きな衝撃を与え、後に消防法や建築基準法の改正を促すなど、防火対策の在り方を根本から見直す契機となります。火災発生の混乱と悲しみの中、内山鑑定の内山理も鑑定人として現場に臨み、その姿は火災を報じる新聞記事のすぐ隣に取り上げられています。社会的責任と向き合う鑑定人の姿が、そこにありました。
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『企業と損害保険』に並んで、鑑定人として取材を受けた理の記事(提供:産経新聞社 1972 年5月18日付) -
『企業と損害保険』に並んで、鑑定人として取材を受けた理の記事
(提供:産経新聞社 1972 年5月18日付)
1973 昭和48年
四国の地に、初の支店を開設
1973年(昭和48年)、内山鑑定は四国・高松市に初の支店を開設。これは、当時の四国地方に常駐する鑑定人が一人もおらず、火災や事故が起きるたびに大阪から船で現地へ向かうという対応を余儀なくされていた時代背景によるものでした。日本損害保険協会・四国地方委員会からの要請を受け、地域の保険契約者と保険会社の安心を守るため、内山鑑定がその一歩を踏み出したのです。地方に根ざし、迅速な対応を可能にする拠点として、四国初の支店は業界内でも注目を集めました。
1975 昭和50年
東西統合へ、
鑑定人協会がひとつに
東西に分かれていた鑑定人協会が統合され、「日本損害保険鑑定人協会」(任意団体)が発足しました。地域ごとに独自の歩みを重ねてきた鑑定人たちが、同じ理念と使命のもとに結集し、鑑定制度の信頼性と社会的地位の確立に向けて大きな一歩を踏み出した出来事でした。
発展
1980’s-1990’s
1980 昭和55年
地震保険制度、補償の拡充へ
制度創設当初、「全損」のみが対象とされていた地震保険において、補償内容の見直しが行われ、「半損以上」の損害も補償対象に加えられました。これにより、補償区分は「全損」「半損」の2区分となり、より現実に即した支援が可能となりました。
1981 昭和56年
博覧会に常駐、
“駐在鑑定”の先駆けとなる
1981年(昭和56年)3月20日より約半年間にわたり開催された「神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア’81)」において、内山鑑定は保険引き受け団体の要請を受け、現地に鑑定人を常駐させる業務を担いました。万が一の事故発生時に、即座に損害確認ができる体制を整えることが目的でしたが、幸いにも大きな事故はなく、博覧会は無事に閉幕を迎えました。この現地駐在という取り組みは、事故対応の迅速化と保険業務の信頼性向上に資するものとして、以後の保険対応の在り方に一つの指針を示す貴重な経験となりました。
1986 昭和61年
神戸支店開設
京都支店開設
1987 昭和62年
業界初の女性鑑定人を登用
鑑定人という職業は、かつて火災現場の焼残物を扱う業務から発展したこともあり、長らく「男性の仕事」とされてきました。危険を伴い、体力を要する仕事という先入観から、業界では女性の登用が進んでいなかった時代。そんな中、1987年(昭和62年)、内山鑑定において事務職として勤務していた女性が鑑定人助手(調査人)として現場に立ち、業務に携わるようになりました。この一歩は、業界における女性鑑定人登用の先駆けとなり、4年後の1991年(平成3年)には、ついに新卒女性鑑定人の採用が実現。以来、着実に女性鑑定人の活躍の場が広がり続けています。1992 年『「男の職場」に女性急増』の記事に、『昨年、初めて女性鑑定人が誕生』と記載がある(提供:朝日新聞社 1992 年8月24日付)
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1992 年『「男の職場」に女性急増』の記事に、
『昨年、初めて女性鑑定人が誕生』と記載がある
(提供:朝日新聞社 1992 年8月24日付)
1989 平成元年
広島支店開設
1991 平成3年
名古屋支店開設
1991 平成3年
地震保険、より現実的な補償へ
地震保険制度において新たに「一部損」の区分が追加され、補償内容は「全損」「半損」「一部損」の3段階へと拡充されました。従来は、一定以上の被害がなければ保険金の支払い対象とならなかったため、部分的な損害に対する補償が課題とされていました。この制度改正により、被災者の実情に寄り添った柔軟な支援が可能となり、地震リスクに備える社会的な基盤が一層強化される転機となりました。
台風19号(別名:りんご台風)、
損保業界に衝撃走る
1991年(平成3年)、通称「りんご台風」とも呼ばれる台風19号が日本列島を縦断。暴風と豪雨により全国各地に甚大な被害をもたらし、損害保険の支払額は過去最高の5,679億円に達しました。この未曾有の支払い規模は、自然災害リスクに対する保険制度の在り方に大きな課題を突きつけ、損害保険業界全体にとっても、災害対応体制や補償設計の転換を迫られる転機となりました。
1994 平成6年
成長とともに、株式会社へ改組
創業から約60年。内山鑑定は大阪本社のほか全国10拠点を展開し、従業員数も100名を超える体制へと成長を遂げていました。そうした中、有限会社という組織形態ではその規模や責任に見合わなくなりつつあり、加えてバブル崩壊後の経済低迷期において、経営の安定と組織体制の強化は喫緊の課題となっていました。そのような時代の要請に応える形で、1994年(平成6年)5月、資本金を1,000万円に増資し、「株式会社内山鑑定事務所」へと改組。信頼性と持続可能性を備えた企業基盤を築く、新たな節目の年となりました。
1995 平成7年
東京支店開設、関西から全国へ
創業以来、西日本を中心に事業を展開してきた内山鑑定は、1995年(平成7年)11月、初めて首都圏に進出し、東京支店を開設しました。当時の損害保険鑑定業界では、「鑑定事務所は指定地域内でのみ営業を認める」という保護と規制の慣習が色濃く残っており、この出店は異例の決断でした。しかし、変わりゆく損保業界の構造と首都圏の重要性を見据えたこの一歩は、内山鑑定が全国規模での展開を本格化させる象徴的な出来事となりました。
1995 平成7年
阪神・淡路大震災、
現場と向き合った日々
1995年(平成7年)1月17日、淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の阪神・淡路大震災が発生。鑑定業務を進めようにも現地への移動に困難を極め、また現地に辿り着いても宿泊する場所もない状況であったが、内山鑑定は保険会社からの鑑定依頼に応えるべく、50人に及ぶ鑑定人で対応を行いました。この経験が、後の「広域災害損害調査員制度」の構築へと繋がりました。
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磯上通5丁目付近から南を望む(提供:神戸市)
1996 平成8年
保険業法改正、
鑑定の新たな局面へ
1996年(平成8年)、保険業法の抜本的な改正が行われました。保険料率や保険商品の自由化が進み、保険会社は商品設計やサービスの多様化を推し進めることが可能に。同時に、保険契約の仕組みが複雑化・高度化する中で、鑑定人に求められる専門性と役割も広がりを見せることとなりました。
1999 平成11年
広域災害に備え、調査体制を革新
地震や台風などの自然災害が発生すると、短期間に膨大な数の鑑定依頼が寄せられます。こうした事態に迅速かつ的確に対応するため、内山鑑定は1999年(平成11年)、建築士を活用した「広域災害損害調査員制度」を発足させました。制度初の稼働は、同年9月に日本を襲った台風18号。延べ5,200人を超える調査員が動員され、大規模災害時における鑑定業務の新たな体制が実証されました。この取り組みは、災害多発時代における損害保険鑑定の在り方を大きく変える礎となり、現在に続く広域対応の基盤を築く画期的な一歩となりました。
転換
2000’s-2010’s
2000 平成12年
金融庁発足、
保険業界への監督が強化
金融行政の一元化を担う組織として金融庁が発足し、保険業界に対する監督体制が大きく強化されました。保険金支払いの健全性と透明性を高め、顧客保護を徹底するため、鑑定人には従来以上に高度な専門性と厳格な公平性が求められる時代へと移行しました。
2002 平成14年
内山真が代表取締役社長に就任
先代社長の甥である内山真が、三代目代表取締役社長に就任しました。就任にあたり真が掲げたのは、職人気質の鑑定人がただ集う組織ではなく、知識と情報を共有し合い、適切に管理された品質を全員で守り抜く企業への変革でした。先々代から脈々と受け継がれた理念を大切にしながらも、新しい発想と取り組みを積極的に導入し、全ての従業員が「ここで働くことに誇りを持てる会社」を目指して歩みを進めています。
東京支店を東京本部へ改組
鑑定品質を体系化した
「内山サービススタンダードマニュアル(USSM)」
誕生
経営理念をもとに、最高水準の鑑定サービスを提供し続けるための指針として「内山サービススタンダードマニュアル(USSM)」を策定しました。これは、内山鑑定の社員が鑑定人として遵守すべき行動基準や規範を初めて体系的に文書化したもので、それまで個々の経験や感覚に委ねられていた判断基準を、組織全体で共有できる形にまとめた画期的な試みでした。USSMの策定は、品質の均一化と企業としての信頼向上に大きく寄与し、当社のサービス提供体制を新たな段階へと引き上げました。
2004 平成16年
新潟中越地震、
再び試される鑑定人の力
新潟県中越地方を襲った大地震は、阪神・淡路大震災以降で最大規模の地震被害となりました。甚大な被害を前に被災地では迅速かつ正確な損害把握が求められ、鑑定人の現場対応が改めて注目されることとなりました。
2005 平成17年
「内山鑑定」「内山鑑定事務所」を
商標登録
「内山」という姓は一般的であり、「鑑定」という言葉も広く知られた役務名であるため、商標として登録するには高いハードルがありました。しかし、長年にわたり業界で築き上げた確かな実績と高い認知度が評価され、「内山鑑定」「内山鑑定事務所」の両名称が正式に商標登録されました。この登録は内山鑑定という名が単なる呼称ではなく、品質と信頼を象徴するブランドであることを公的に証明する出来事となりました。
2006 平成18年
資本金を1億円に増資、
さらなる飛躍へ
2007 平成19年
高本損害鑑定事務所と提携、
連携の時代へ
2001年(平成13年)以降、損害保険業界では合併・統合が相次ぎ、保険会社の大型化が急速に進んでいました。規模拡大に伴う全国的かつ迅速な対応力を求める声に応えるためには、鑑定業界においても事業者間の連携が不可欠に。こうした時代の要請を背景に、2007年(平成19年)12月20日、内山鑑定は福岡市に本社を置く株式会社高本損害鑑定事務所と業務提携契約を締結。両社が手を携えることで、対応力と信頼性を兼ね備えた体制を築き、業界における新たな協力関係のモデルを示す一歩となりました。
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提供:保険毎日新聞社 2008 年1月22日付
歴史と未来を紡ぐ、ロゴマーク誕生
内山鑑定の新たな象徴としてロゴマークが誕生しました。長い歴史の積み重ねと、人と人とのつながりを重ね合わせ、さらに上昇と発展を思い描ける立体的なデザイン。そこに込められたのは、伝統を守りながら未来へ歩み続ける企業の姿です。このロゴマークは翌2008年(平成20年)に商標登録され、内山鑑定の理念と信頼を示す旗印として、社内外へ浸透していきました。
2008 平成20年
横浜支店開設
2009 平成21年
個人情報保護体制を証す、
プライバシーマーク取得
2005年(平成17年)4月、個人情報保護法が施行され、保険契約や事故対応に関わる膨大な個人情報をより適切かつ安全に管理することが強く求められる時代となりました。内山鑑定はこの社会的要請に応えるべく、全社的な体制整備と運用改善に取り組み、2009年(平成21年)6月22日、プライバシーマークの認証を取得しました。
内山高本合同鑑定事務所LLP
(本部:東京都)を設立
さいたまオフィス開設
在籍鑑定人が100名を超える
内山鑑定に在籍する鑑定人の数がついに100名を超えました。創業以来受け継がれてきた中立・公正の精神と全国各地で培った確かな実績が、着実な人員拡充を支えてきました。
2010 平成22年
日本損害保険鑑定人協会が、
任意団体から一般社団法人へ移行
2011 平成23年
静岡支店開設
国際鑑定人ネットワーク「vrs」に
加盟
日系企業の海外進出が加速する中、損害保険会社もグローバル市場でのリスク引き受けを本格化させていました。内山鑑定も国際マーケットから寄せられる依頼に対し、国内と同水準の品質で応えられる体制の構築を目指し、2011年(平成23年)7月、世界140か国の有力鑑定会社が加盟する国際鑑定人ネットワーク「vrs Adjusters, LLC」の正式メンバーとなりました。
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vrs Adjusters, LLC -
vrs Adjusters, LLC
2011 平成23年
東日本大震災、
総力を挙げた鑑定対応
2011年(平成23年)3月11日、三陸沖を震源とする国内観測史上最大規模マグニチュード9.0の東日本大震災が発生。これに伴う巨大津波は、東北・関東の沿岸部を中心に未曽有の被害をもたらしました。現地では情報収集や移動手段の確保が困難を極め、通信網も寸断される中、内山鑑定では、半年前に導入していたWEB会議システムが有効に機能し、各拠点間で迅速な対応協議が可能となりました。余震や原子力発電所の損壊による放射能への不安が続く中、バッジ型放射能測定線量計を配付し、安全を確保しながら鑑定業務を遂行。この災害対応では、鑑定人と広域災害損害調査員を合わせ約130名が専従し、過去最高の稼働態勢を構築。内山鑑定の総力を挙げた活動は、被災地の復旧・復興を支える大きな力となりました。
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提供:仙台市
2012 平成24年
本社所在地を東京都に移転
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東京本社 (ニッセイ溜池山王ビルの2階・8階)
2014 平成26年
内山真が日本損害保険鑑定人協会(現・日本損害鑑定協会)
会長に就任
2016 平成28年
札幌支店開設
2016 平成28年
熊本地震
2017 平成29年
内山高本合同鑑定事務所LLPさいたまオフィスの組織変更を行い、
株式会社内山鑑定事務所さいたま支店と株式会社高本損害鑑定事務所さいたまオフィスを設置
2017 平成29年
地震保険の損害区分が細分化
地震保険において、「半損」が「大半損」と「小半損」に区分され、補償内容が4段階全損・大半損・小半損・一部損となる。
西日本豪雨、大阪北部地震、
北海道胆振東部地震、台風21号など、自然災害が多発
革新
2020’s~
2019~2022 平成31年~令和4年
新型コロナウイルスと
鑑定業務の変革
2019年(平成31年)12月、中国・湖北省武漢市で確認された新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、2020年(令和2年)に入ると瞬く間に世界へ拡大。2022年(令和4年)8月までに累計感染者数は6億人を超え、かつてない規模の世界的パンデミックとなりました。外出や対面接触が制限される社会状況下で、内山鑑定はクラウドスキャンを活用し、現地訪問を伴わないリモート対応による鑑定業務を実現。この取り組みは、危機の中で生まれた新たな業務形態として定着し、後の「リモート立会鑑定」へと発展する礎となりました。
2020 令和2年
クレームマネジメント本部、始動
保険金支払のさらなる迅速化と適正化を支援するため、新たに「クレームマネジメント本部」を発足。外部機関との連携を伴うサービスや最新テクノロジーを活用した新しい鑑定サービスの開発を担い、変化する保険業界のニーズに応える体制強化を目的としています。
「サイバー鑑定」
「サイバー損害鑑定」商標登録
2020 令和2年
日本損害保険鑑定人協会が「日本損害鑑定協会」に名称変更
2021 令和3年
日本損害鑑定協会が
公益社団法人の認定を受ける
内山真が代表(当時)を務める日本損害鑑定協会が内閣府より公益社団法人としての認定を受けました。公益目的事業として掲げられたのは「公正かつ迅速な損害鑑定を推進し、国民生活の安定・向上に貢献すること」。この認定は損害鑑定業界が社会基盤の一翼を担う存在であることを改めて示すものであり、その使命と責任を公的に裏付けるものとなりました。
2022 令和4年
任期満了のため、
内山真が日本損害鑑定協会 会長を退任
2023 令和5年
サイバー鑑定課が発足、
新時代のリスクに挑む
サイバー攻撃や情報漏えいなど、デジタル社会特有のリスクが拡大する中、サイバー保険市場は急成長を遂げていました。この新たな分野への対応が鑑定会社にも強く求められる状況を受け、サイバー保険案件に対応する「サイバー鑑定課」を発足。専門知識と技術力を備えた体制を整えることで、複雑化するサイバー損害に迅速かつ的確に応える一歩を踏み出しました。
創業88周年、
社名を「内山鑑定株式会社」へ
2023年(令和5年)10月1日、創業88周年を迎えた内山鑑定は社名を「内山鑑定株式会社」へと改めました。従業員数は200名を超え、全国規模で展開する事業体制が確立する中、社名が社会に与えるイメージと実際のサービス提供規模を一致させる必要性が高まっていました。
2024 令和6年
サイバー鑑定課、ISMS認証を取得
高度な情報資産を取り扱うサイバー鑑定課が国際基準に沿った管理体制を整備。情報セキュリティマネジメントシステム(Information Security Management System)の国際標準規格「ISO 27001」認証を取得しました。
在籍鑑定人が150名を超える
「内山鑑定株式会社」を商標登録
「ECO鑑定」を商標登録
2024 令和6年
能登半島地震
2025 令和7年
全国対応の「リモート立会鑑定」始動
全国47都道府県での「リモート立会鑑定」サービスの提供を開始しました。このサービスは内山鑑定の高度な損害鑑定力とALSOK株式会社の全国対応力を融合させたもので、どの地域でも円滑かつ高品質な現場調査・鑑定を可能にします。全国展開に先立ち、両社は2021年から4年間にわたり共同で試行を重ね、サービスの有効性と信頼性を確認。その成果を経て、全国展開を実現しました。
私たちはこれからも、
創業以来受け継いできた公正・中立の精神と変化を恐れず
挑戦する姿勢を胸に、社会とともに歩み続けます。
また時代とともに変化するリスクやニーズに真摯に向き合い、
鑑定の専門力と信頼で、
持続可能で安心できる社会の実現に貢献していきます。